東京朝鮮第2初級学校・枝川裁判、和解が成立!

◆和解が成立!(2007年3月8日第17回)

 2007年3月8日(木)10:30より東京地裁615号法廷にて、第18回口頭弁論が開かれた。37名分の傍聴券を求めて130名を越える人が列をつくった。

 今回の弁論では、原告(都と区)と被告(東京朝鮮学園)の間に和解が成立した。
 まず最初に被告東京朝鮮学園代理人が第9準備書面を陳述し、戦前の強制的移住からはじまる歴史的経緯、本件土地が戦後直後から朝鮮人が心血を注いで作り維持してきた朝鮮学校の場であり、将来にわたっても朝鮮学校でありつづけることから、裁判所に英断を求めた。それを受け、裁判所は、前回の東京朝鮮学園理事長、宋校長および弁護団の意見陳述を踏まえ、また、当地が戦後直後からずっと朝鮮人子弟の教育の場、朝鮮学校であり、今後もそうであり続けることに鑑み、和解を勧告した。当事者双方は和解勧告を受け止めると述べ、裁判所は弁論手続きを終結し、続けて、部屋を移し、非公開の和解手続に移行し、そこで和解が成立した。

 主な内容は朝鮮学校側が都・区から当該都有地・区道部について、市価の10%弱である1億7000万円の和解金を支払うことにより、所有権を取得するというもの。これで三年三ヶ月にわたる枝川裁判は終わりを迎える。

 裁判終了直後に弁護士会館で記者会見が行われ、その後場所を移して支援者に対する報告集会が開かれた。

 まず弁護士と学校関係者による発言があった。

 「水面下での交渉になり、突然の発表となってしまった」と言う金舜植弁護士は、やや緊張した面持ちで弁護団談話を読み上げた。そして今回の和解について簡単に解説したのち、市価の10%弱という和解金に触れ「これは民族教育の権利を都側が認めざるを得なかったことを示した」と強調した。
 金順彦同学園理事長は「色々と情勢が難しい中、本当に心配した。和解できたことが嬉しい」と喜びを表現し、理事長声明を読み上げた。
 校舎取り壊しを危機を免れた東京朝鮮第二初級学校の宋賢進校長は、「裁判を支援してくれた弁護士、同胞、枝川支援連絡会、そして韓国からも、多くの方が支援してくださった。本当に感謝したい」と発言した。そして3年3ヶ月計18回に及んだ裁判を「学校の教員、保護者、生徒が本当に不安な日々を迎えていた」と同時に裁判を通じて支援の輪が広がったと振り返った。また和解が成立したことで「今後、民族教育がもっと発展される条件が整った」とし、「校舎建て替えなど大きな課題が本当に山積みだが、裁判に比べれば本当に夢のある悩みだ」と心情を吐露。最後に裁判を通じて「日本人とのよい関係ができた」として、「今後とも支えてくださった皆さんと共に、やっていきたい」と意欲を見せた。

 次に行われた質疑応答では、1億7千万円という和解金の額が妥当かという質問が投げられた。金弁護士は「子供が安心して学べることを第一に優先した」としながら、「学校側に認められるだろう賃借権相当の部分を差し引いても市価の4割ほどになるだろう」とし「四割より安い10%弱であることからもこちらの勝利」と語った。

 また師岡康子弁護士は。「判決で、日本ではじめての民族教育権確立を勝ち取りたいという気持ちもあったが、他方、本件裁判はこちらが起したものでなく、東京都から学校取り壊しという攻撃を仕掛けられたものであり、子どもたちが人質にとられており、また、訴訟提訴前にも東京都との間で格安値での買取交渉をしてきた経緯もあり、子どもたちの教育の場確保を最優先にして、早期解決のために和解を選択した」とコメントした。
 張学錬弁護士も「この裁判は形式的には民事裁判だが、内容的には学校つぶしという恐ろしい裁判だった」と言い、和解金の安さに「書かれてはいないが、都が民族教育権を認めざるをえなかったのとかわらない」と語った。

 その後、裁判支援者の発言が続いた。

 枝川支援連絡会の佐藤信行氏は、裁判の間2年弱で、枝川都民基金に591万円の寄付があったことを報告した。
 枝川都民基金の共同代表である大津健一氏は「会合のたび弁護団から「必ず勝つ」と聞かされていたのでとても勇気付けられていた。都民基金は今後もやっていく」とコメントした。
 証言記録が裁判を助けた『東京のコリアンタウン』を出版した樹花舎代表の花村健一氏は「江東区の朝鮮人の聞き取りを単行本としてまとめたときから関わっていた。日本人として、朝鮮人と思いを共にしてきた。今後も日本の誤った流れに抗していきたい」と語った。
 ミレ(未来)・枝川朝鮮語講座を主催する福島有伸氏も「本当に嬉しい。第二(朝鮮学校)を日本人との新たな関係をつくるところにしたい」と発言した。江東区の在日朝鮮人一世の聞き取りを行った支援連絡会の村田文雄氏は「(当時)本は売れなかったが裁判に役立ってよかった」とコメントした。
 裁判前から枝川住宅管理委員会の委員長を務めてきた金成泰氏は「本当に嬉しい」としながら、「在日朝鮮人一世の証言記録が残っている地域が少ない。記録してくれた日本人に感謝したい」と挨拶した。そして「実は12年だ。都との交渉は阪神大震災の95年から始まっている。当時払い下げの直前までいったのに、政治状況がかわり都の態度が急変した」と振り返った。最後に「校長も言ったとおり、日本人とよい関係をつくりだすために、今後もがんばっていきたい」と挨拶した。

 集会の最後に、支援連絡会の佐藤氏が同会の声明を読み上げた。それは次のように結ばれている。
 「私たちにとって枝川裁判の何よりも大きな収穫とは、枝川朝鮮学校に学ぶ子どもたちに出会い、また枝川朝鮮学校の教員をはじめ、保護者、卒業生、学校を支える枝川の町の人びとと出会い、議論をし、共に裁判闘争を担ったことである。そして全国各地、韓国の仲間たちと、「枝川」を通して知り合えたことである。これ以上の「成果」があるだろうか。私たちは、「裁判闘争」に勝利したのである」-枝川裁判支援連絡会のページ裁判報告-

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